郷土ゆかりの作家

毛利 恒之(もうり つねゆき)

作家・脚本家

昭和8年(1933)大牟田市生まれ。

経歴・プロフィール

三池高校、熊本大学卒。 NHK契約ライターを経てフリーの放送作家となる。 昭和39年、テレビドラマ脚本「十八年目の召集」で第1回久保田万太郎賞を受賞。「幾星霜」(文部省芸術祭奨励賞)、「七人の刑事」など、作品多数。 一台のピアノをめぐる特攻秘話を描いた小説『月光の夏』は自らの企画・脚本で平成5年に映画化され、全国で200万人以上を動員するヒット作となった。 社会派ドラマ、報道ドキュメンタリー作家として知られる。 「われら了解せず・捕鯨船第31純友丸」で地方の時代賞特別賞とギャラクシー賞推奨。ほかにも、文化庁芸術作品賞、民放連賞、JNN賞、NNN賞など多彩な受賞暦を持つ。 「騎馬武者現代を駆ける」は動物愛護映画コンクールで内閣総理大臣賞を受賞した。 ラジオドラマ「ヒロシマの黒い十字架」(中国放送)が平成12年度文化庁芸術祭大賞ほかを受賞。 主な著書に、小説『月光の夏』『月光の海』、ノンフィクション『地獄の虹』-新垣三郎/死刑囚から牧師に―、『虹の絆』―ハワイ日系人母の記録―、戯曲『月光の夏 挽歌』などがある。
最新作として、小説『月光の夏』『月光の海』につづく特攻三部作の第三部『青天の星』がある。


所蔵作品リスト

作品名 出版社 出版年 備考
射殺-部長刑事殺人事件 廣済堂出版 1986 小説
夢にむかって飛べ
-宇宙飛行士エリソン=オニヅカ物語
講談社 1989 伝記
月光の夏  準備稿 仕事 1992 シナリオ
月光の夏  決定稿 仕事 1992 シナリオ
月光の夏  撮影稿 仕事 1992 シナリオ
月光の夏 汐文社 1993 小説 文庫もあり(講談社)
月光の夏 シナリオ作家協会 1993 雑誌「シナリオ」1993年7月号
小さな森のレクイエム KBCラジオ 1995 オーディオドラマCD
月光の夏 挽歌 映人社 1996 戯曲
月光の夏 ポニーキャニオン 1996 ビデオ
地獄の虹 毎日新聞社 1998 ノンフィクション
虹の絆 毎日新聞社 2000 ノンフィクション
月光の海 講談社 2001 小説
ヒロシマの黒い十字架 RCC中国放送 2001 オーディオドラマCD
青天の星 光人社 2003 小説
ユキは十七歳特攻で死んだ ポプラ社 2004
恋ひ死なむ ミルトス 2008 小説

カルタックスおおむた開館10周年に寄せて-戦争をテーマとした原点

A君-。お元気ですか。四月に大牟田で開かれた同期会には、残念ながら参加できなかった。ごめんなさい。詰めて原稿を書いていて、時間の余裕がなかったんです。 それが「講談社文庫書き下ろし<月光二部作>七月十五日、緊急出版」ということになって、いまゲラの校正をしながら、ふと、大牟田のことを考えました。

映画『月光の夏』のときは、お世話になりました。とりわけ、きみには大蛇山のロケと、映画上映で、たいへんご苦労をかけましたね。 ご存知の通り、あの映画は「とまらぬ涙、かみしめる平和」と涙、涙の感動を呼びました。これまでに全国千七百市町村の四千カ所で上映され、観客はすでに二百万人を超えています。なお、あちこちで上映されたり、テレビ放送されたりしていますよ。きのうも、北海道で上映会を開きたいという話がありました。
だから、大蛇山は、まだまだ各地のスクリーンやブラウン管であの元気のいい姿を見せることでしょう。

実は、七月に刊行するのは小説『月光の夏』につづくものです。『月光の海』と題した、およそ五百枚の作品ですが、沖縄の白い崖(ギダラ)のある小さな孤島を舞台に、戦争中の特攻の犠牲をえがきます。
「特攻の海」に眠る征き逝きし若者たちの魂魄(こんぱく)の叫びを通して、「平和の貴さ、いのちの重さ」を二十一世紀へのメッセージとして伝えたい、と思って書きましたが、それを講談社は、二十一世紀の「八・一五」に向けて、全国にひろめたい考えです。

私は、これまで、戦争と戦後問題をテーマとするものを多く書いてきました。戦争ものをよく書くね、ときみもいつか言いましたが、映画『月光の夏』の試写を観た詩人の友人が、涙で目を赤くして、似たようなことを言いましたよ。
「ぼくは、こだわる、という言葉は好きじゃないけど、あなたは戦争にこだわり通しましたねぇ」と―。 なぜなんだろう。私たちは、中学で軍事教練を受けた最後の組ですよね。空襲を受けた戦災体験はあるけれども、戦場での戦闘体験はありません。その私が、なにをきっかけに、戦争に関わるものをよく書くようになったのか、と考えたとき、大牟田のことが思い浮かんだのです。

高校卒業後、私は大牟田を離れました。NHK福岡の契約ライターとなって書き始めたころは、しばらく、大牟田の実家に帰っていました。そこで書いたのが、戦争中、大牟田にあった捕虜収容所での捕虜殺害事件をめぐる、ミステリー・ドラマ『マーサ』です。この事件は、戦後、戦争犯罪として、米第八軍の軍事法廷(横浜)で裁かれ、当時の捕虜収容所長、Y中尉が死刑の判決を受けました。スガモ・プリズン(東京)の処刑第一号となって、Yさんは処刑台上でいのちを断たれました。そのとき、Yさんは二十七歳―。このドラマを書いたとき、私も二十七歳でした。それだけに、Yさんの非業の死を、私は深刻に胸に刻みました。実はそれが、私が戦争のテーマにこだわる原点になっています。

このドラマは、KBC九州朝日放送の制作で、西村晃、杉葉子、ラビーヌ・シェルトンらが出演し、全国にテレビ放送されて反響を呼びました。『マーサ』は日本のテレビドラマの海外輸出第一号となって、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどで放送されました。

『マーサ』につづく、戦争の悲劇を戦後の福岡を舞台に日米両国の俳優が演じた『十八年目の召集』は、同じくKBCから全国放送されて、好評を博しました。その脚本で、私は第一回の久保田万太郎賞を受け、それが励ましになりました。

戦争ゆえに人命が奪われる悲しみに泣き、恩讐を超えたヒューマンな愛に感動するのは、国家、民族の違いなく、人間に共通しています。 二十世紀は戦争の世紀でした。人類は世界大戦を繰り返し、破壊と殺戮に狂奔してきました。ついには、原子爆弾という究極の大量殺戮兵器まで生み出しました。
世紀の前半、日本は、アジアに戦火をひろげ、あげくは、国民三百万がいのち奪われ、国土を焦土と化して、未曾有の敗戦を体験しました。 その苦い体験から、日本は戦争放棄を新憲法にかかげ、世紀後半は平和を守ってきました。

二十一世紀を迎えたいま、世界は、人類を絶滅させて余りある、三万発もの核兵器を抱え込んでいます。戦火は絶えません。日本国憲法第九条はどうなるのでしょうか―。多くの戦没者の犠牲を礎にした、今日の平和の貴さ、ありがたさを忘れたとき、平和は危うくなると思います。
戦争体験世代と戦争を知らない世代をつなぐ立場にいる者として、またメディアに関わる者のひとりとして、私は戦争体験を伝える役割を果たすべきだと考えてきました。昨年は、核兵器廃絶をテーマに『ヒロシマの黒い十字架』と題するオーディオ・ドラマ(RCC中国放送)を書きました。これは二〇〇〇年度文化庁芸術祭大賞を受け、CD化されました。大牟田の皆さんにも聴いてもらえるように、市立図書館に贈ろうと思います。

私は東京に住むようになって、もう三十五年になります。大牟田には物心ついてから二十年余りしか住んではいません。しかし、戦争と戦後問題を大きなテーマと感じて、さまざま、作品を書きつづけてきた原点は、やはり『マーサ』にあり、それはそのとき大牟田にいたからこそ書けたのでした。

わが生を享けた産土、大牟田は、私は齢を重ねるにつれ、年々、遠くなっていくような気がしています。なにかしなければ、という気はあるのですが―。 大牟田にいた少年のころは感じませんでしたが、東京にながく住んでいて感じるものがあります。率直にいえば、それは、大牟田の、文化に対する施策の薄さ、あるいは、芸術への遠さといったものです。市に文化戦略がとぼしいですね。

A君。きみは大牟田に住んでいて、どう思いますか。 黒いダイヤとも言われた天の賜物、石炭を膨大に産出して、最盛期は人口二十一万を数え、栄えた鉱工業の街ですのに、例えば美術館のひとつもありませんでしたね。美術館を建てればいいというものでもありませんが―。

二十一世紀は、文化なくしては、豊かな生活とは言えなくなるように思います。豊かな生活とはいわずとも、若い世代に魅力のない街になっていくでしょう。それでは街の将来が細ります。文化は「カネ食い虫」と思われていた時代は終わり、これからは逆ですね。街に文化の多様なソフトの充実が必要になります。市立図書館と三池カルタ・歴史資料館の複合施設「カルタックスおおむた」が十周年を迎えたと聞きました。街をより文化的に豊かにしていく拠点になるように祈ります。

A君。有明海の美しい落日を、いつか見たいですね。皆さんによろしく。


(2001年5月)毛利 恒之